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アニメ【違国日記】1話の感想と考察:「あなたは美しいものを受けるに値する」高代槙生が示した愛よりも誠実な救い

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アニメ『違国日記』第1話「溢れる」。

放送前は正直なところ、そこまで強烈にマークしていた作品ではありませんでした。

実写映画化もされた人気漫画が原作であることは知っていましたが、まさかアニメーションという表現媒体で、ここまで「静謐」と「激情」が同居するような、とてつもない映像体験をさせられるとは思いもしませんでした。

見終わった後、しばらく動けなかった。

ただのアニメを見たというよりは、上質な純文学を一冊読み終えたような、あるいは一本の極上の映画を観終わったような、そんな重厚な余韻が胸に残っています。

派手なバトルがあるわけでも、わかりやすいラブコメ展開があるわけでもない。

けれど、この第1話には、私たちの心の一番柔らかい部分を容赦なく突き刺し、そして優しく包み込む「何か」がありました。

今回は、この衝撃的な第1話について、私が感じたこと、考えたこと、そしてどうしても語りたくなった演出の妙について、たっぷりと書き綴っていきたいと思います。

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静寂と生活音の「音楽」

まず、冒頭のアヴァンタイトルから心を掴まれました。

明るく清潔感のあるキッチンで、少女・朝(あさ)が料理をしている。

彼女が口ずさんんでいるのは、TOMOOの歌う主題歌『ソナーレ』。

劇中のキャラクターがOP曲を鼻歌で歌うという、少しメタ的でありながらも、その空間の「日常」を強調する演出にハッとさせられます。

しかし、物語が進むにつれて、その「綺麗なキッチン」がまだ未来の姿であることがわかります。

両親を亡くした朝が引き取られることになる、叔母・高代槙生(こうだい まきお)の部屋。

そこは、冒頭の光景とは打って変わって、生活の澱(おり)が沈殿したような、雑然とした空間でした。

この部屋の描写の「解像度」が凄まじいのです。

ただ散らかっているのではない。

床に落ちた髪の毛、うっすらと積もった埃、無造作に置かれた郵便物の山。

槙生が部屋を歩く際、足の裏にペタッと紙ごみが張り付く描写がありましたが、あの「不快感」のリアリティたるや。

あの瞬間の「生活のままならなさ」や、槙生という人間が社会生活においてどこか不器用さを抱えていることが、セリフによる説明一切なしで伝わってきました。

劇伴を担当している牛尾憲輔さんの音楽も、この作品の空気感を決定づけています。

ピアノの音がポツリポツリと零れ落ちるようなBGMは、登場人物たちの心に空いた穴や、埋まらない距離感を音として表現しているようで、無音の時間さえも雄弁に語りかけてくるようでした。

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「違う国」の女王・高代槙生

この物語の核となるのは、人見知りの小説家・高代槙生と、事故で両親を亡くした15歳の姪・田汲朝。

この二人の関係性です。

沢城みゆきさんが演じる槙生の存在感が、とにかく圧倒的でした。

彼女は決して「聖人君子」ではありません。

姉(朝の母親)のことが死ぬほど嫌いで、その死に際してすら涙を流せない自分に戸惑い、苛立っている。

人付き合いが苦手で、他人が自分のテリトリーに入ってくることに露骨な拒否反応を示す。

けれど、彼女は「女王」のようでもありました。

それは他人を支配するという意味ではなく、自分の足で立ち、自分のルールで生き、孤独という荒野に一人で玉座を構えているような、孤高の強さです。

葬儀の席で、親族たちが朝の今後について無責任な「たらい回し」の相談をしている時、槙生が放った言葉。

「あなたは、15歳の子どもは、こんな醜悪な場にふさわしくはない!あなたは、もっと美しいものを受けるに値する」(出典:アニメ『違国日記』第1話 / 原作:ヤマシタトモコ)

このセリフを聞いた瞬間、鳥肌が立ちました。

「愛しているから引き取る」とか「可哀想だから助ける」といった、ウェットな感情論ではないのです。

そこにあるのは、人として守られるべき「尊厳」や「権利」への強烈な意識。

大人が子供に対して果たすべき「責務」を、彼女は誰よりも理解し、実行しようとしている。

「あなたを愛せるかどうかも分からない だけど 私は決してあなたを踏みにじらない」(出典:アニメ『違国日記』第1話 / 原作:ヤマシタトモコ)

という姿勢は、安易な同情よりも遥かに誠実で、信頼できる「救い」だと感じました。

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「盥(たらい)」と「砂漠」をつなぐ演出の魔法

第1話の白眉とも言えるのが、時系列を巧みに組み替えた構成と、「盥(たらい)」を巡る一連のシーンです。

原作を知っている身からすると、アニメ版の構成の大胆さに驚かされました。

原作では時系列順に進む出来事が、アニメでは「現在(同居開始後)」と「過去(葬儀)」を行き来するノンリニアな構成になっています。

この改変が、朝の心理状態を浮き彫りにする上で、信じられないほど効果的に機能していました。

同居初日、槙生に「日記を書くといい」と勧められた朝。

彼女がノートに向かうと、その罫線が波打ち、いつしか広大な「砂漠」へと変貌していくシーン。

あの映像美には息を呑みました。 両親を亡くした喪失感。

悲しいとか寂しいとかいう言葉では追いつかない、ただただ広くて何もない場所に放り出されたような感覚。

朝の心象風景である「砂漠」が、アニメーションならではの表現で視覚化されていました。

そして、その砂漠の中で朝が呟く、「水が欲しい。せめて盥(たらい)に張った水があれば…」という言葉。

これが、葬儀の回想シーンへと繋がります。

親族たちの心ない会話がノイズのように響く中、呆然と口を開けていた朝。

口の中がカラカラに乾き、思考が停止していく中で、彼女の口から突いて出た言葉が「たらいって、漢字でどう書くんだっけ?」でした。

周囲の大人たちは、これを「ショックでおかしくなった」「可哀想に」と受け取ります。

でも、私たち視聴者にはわかるのです。

あれは、親族たちが自分を「たらい回し」にしようとしている言葉の響きと、砂漠のような喉の渇きを潤す「水(たらい)」への渇望が、混濁した意識の中でショートして生まれた言葉なのだと。

この「たらい」という言葉をきっかけに、朝の瞳から涙が溢れ出す。

乾ききった砂漠に、ようやく水が戻ってくる。 感情を凍結させて自分を守ろうとしていた朝の心が、槙生の介入によって決壊する。

この一連の流れ、「砂漠→水→涙」というイメージの連鎖が、時系列を入れ替えた演出によってよりドラマチックに、痛切に描かれていました。

脚本の喜安浩平さんと大城美幸監督の手腕には脱帽するしかありません。

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乾いた寿司とトーストのすれ違い

この作品の面白さは、シリアスな感情の吐露だけでなく、ふとした瞬間に生まれる「ズレ」や「滑稽さ」にもあります。

象徴的だったのが、槙生が朝を連れ出す際に言い放った

「行こう。乾いた寿司は食べるに値しない。本当の寿司というものを食べるぞ」(出典:アニメ『違国日記』第1話 / 原作:ヤマシタトモコ)

というセリフ。

これ、「かっこいい!」と思う反面、状況を考えると少しシュールでもあります。

でも、この「乾いた寿司」という表現こそが、朝が置かれていた「愛のない、干からびた状況」を的確に言い当てているんですよね。

そして、その後の朝食のシーン。

ここには二人の「噛み合わなさ」が見事に凝縮されていました。

槙生はいつも通り、トーストを2枚焼く。

でも、朝に「何枚食べる?」とは聞かない。

そして、自分はいつもそうしているからという理由で、トーストを半分に切って出す。

朝は、半分に切られたトーストを見て、「これは何かを挟んでサンドイッチにして食べろというメッセージだ」と解釈してしまう。

結果、朝は一生懸命ウィンナーやキャベツを挟もうとしてボロボロこぼし、槙生はそれを不思議そうに見ながら、自分は具材を挟まずに別々に食べている。

この、「言葉足らずな大人」と「空気を読みすぎる子供」のすれ違い! 槙生は決して意地悪をしているわけではないんです。

ただ、他者と生活のペースを合わせるという概念が希薄なだけ。

朝は朝で、他人の家に放り込まれた緊張感から、相手の意図を過剰に読み取ろうとして空回りしている。

この小さな食卓の攻防戦を見るだけで、この二人の共同生活が前途多難であり、同時にとても愛おしいものであることが予感されます。

トースト一切れでここまで関係性を描けるのかと、唸らされました。

鏡に映る「姉」の亡霊

もう一つ、忘れてはならないのが演出の細やかさです。

槙生が病院へ向かう電車の中、窓ガラスに映る自分の顔が、死んだはずの姉の顔にオーバーラップするシーンがありました。

槙生にとって、姉は理解しがたい、高圧的で嫌いな存在でした。

しかし、窓に映る二人の姿は驚くほど似ていて、服装さえも似通っている。

どんなに拒絶しても、否定しても、自分の中には姉と同じ血が流れている。

その「逃れられない運命」のようなものが、あの短いカットだけで表現されていました。

だからこそ、槙生が朝を引き取ったのは、単なる気まぐれではなく、姉という呪縛に対する彼女なりの「落とし前」の付け方だったのかもしれません。

死んでもなお憎しみが消えない姉の娘を、それでも「踏み躙らない」と決めた槙生の覚悟。

それは、姉とは違うやり方で、人間としての筋を通そうとする彼女の矜持なのだと思います。

「孤独」は共有できるのか

物語の終盤、日記の中の砂漠を歩く朝の隣に、槙生が現れます。

そして彼女は言います。

「わかるよ。それはきっと 孤独だね」(出典:アニメ『違国日記』第1話 / 原作:ヤマシタトモコ)

と。

ここで重要なのは、槙生が「孤独を埋めてあげる」とは言わなかったことです。

ただ、「それが孤独である」と名前を付け、理解を示しただけ。

砂漠は消えません。朝の喪失感も、槙生の抱える空虚さも、簡単には埋まらない。

けれど、「孤独なのは自分だけではない」「隣にもう一人、別の孤独を抱えた人間がいる」と知るだけで、その砂漠の風景は少しだけ変わるのかもしれません。

『違国日記』というタイトルが示す通り、二人は全く「違う国」の住人です。

言語も、文化も、大切にしているものも違う。

わかり合えないことの方が多いでしょう。

でも、違う国の人同士でも、隣に座ってご飯を食べることはできる。

日記を読み合うように、少しずつ相手の言葉を知ることはできる。

この第1話は、そんな「わかり合えなさ」を前提とした上で、それでも他者と共に生きることの微かな光を描き出していました。

最後に

正直、第1話だけでここまで語りたくなる作品に出会えるとは思っていませんでした。

派手なカタルシスはないけれど、じわじわと心に沁みてきて、何度も見返したくなる。

噛めば噛むほど味が出る、まさに槙生が言う「本物の寿司」のような作品です。

朝のモノローグの語彙力の豊かさや、槙生の不器用な優しさ、そしてこれから二人の周りに集まってくるであろう人々との関わり。

日記のページが埋まっていくように、二人の関係がどう変化していくのか。

これからの展開が楽しみで仕方ありません。

「孤独」という名の砂漠を歩くすべての人へ。

このアニメは、きっとあなたの砂漠にも、小さな灯台のような光を灯してくれるはずです。

参考記事▼

アニメ【違国日記】2話の感想と考察:言葉を「包む」ということ、傷を「眠り」に預けるということ
アニメ『違国日記』第2話を視聴しました。第1話の衝撃的な出会いと葬儀のシーンから一転、今話では槙生と朝、二人の奇妙な共同生活が本格的に動き出しました。タイトルは「包む」。見終えた後、じわりと胸の奥が熱くなるような、それでいて静かな余韻が残る...

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